【芥川賞受賞・火花】読むべきか悩むのでテキストマイニングで決定する。
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躍進し続ける芸人・又吉先生。そこはかとなく感じる風格、作家らしい珍しい風貌。じわじわくる笑いの感性。
私は直感的に思いました。彼は歴史に名を刻む傑物ではないかと。
かの太宰治は著名な作家にけちょんけちょんに馬鹿にされて喧嘩まで起こしています。あの邪悪そうな太宰が後世ここまで評価されるのならば、又吉先生の未来は明るい。あくまで直感です。
せっかくなので、今回は「火花」についてできるだけ客観的に読むべき作品かどうか判断してみたいと思います。
読書メーターの感想・レビューからデータを集める。
レビューはどこから集めても問題なさそうですが、アマゾンより、読書メーターの方が読書歴が長くて良質なユーザーに恵まれているんじゃないかと思いこちらを選択しました。
まずは、1000人分のレビューを集めました。そしてそのレビューの内容を形態素解析して形容詞だけを抜き出して頻度順に並べたのが下記の図です。
先ほど文学というのは賛否両論になると言いましたが、「いい」の次に「難しい」という単語がくるなど、感想は真っ二つです。
ポジティブな単語とネガティブな単語を集計すると
・ポジティブ(よい、すごい、おもしろい、素晴らしい、上手い、凄い、楽しい)
330個
・ネガティブ(難しい、悪い、厳しい、辛い、軽い、くどい)
209個
つまり読者の割合で考えるとこのような円グラフになりそうです。
良いとも悪いとも評価しない方々が大半ですが一応ポジティブ派が有利という感じでしょうか。
ただし、先ほどの形容詞を考えている段階であえて無視していましたが、問題は「ない」という否定辞が断トツで多いことです。この「ない」は何を意味するのでしょうか?単純にこのヒストグラムから作品を評価するのは早計なのかもしれません。
そこで、「ない」の前に来る重要な単語を抜き出し、T検定によって明らかに関連性が高いものだけを集めたのが次のグラフです。
縦軸がT値を表しています。コーパス言語学ではT値が1.65以上の値をとれば、「ない」ともう一つの単語の共起は偶然ではないと考えられます。
「売れる」と「ない」で「売れない」という言葉が出てきますが、これは作中の売れない芸人である主人公について描写された言葉です。「ない」と関連性のある単語群から読み取れるのは「わからない」「知れない」「思えない」「理解できない」といった感想です。
形容詞の頻度表でも「難しい」が第二位に上がっていたように、ネガティブ派の主張はこの本が「理解しずらい内容」であるということが代表的なようです。
ですが、幸いなことにポジティブ派の意見(よい、すごい、おもしろい、素晴らしい、上手い、凄い、楽しい)は「ない」によってほとんど否定されていないことから、この本は面白いと評価する人の方が多いということでしょう。
よかった。これで又吉大先生の名著「火花」を買う理由ができました。千円ちょっとくらいの本サッと買えって話ですが。。
実際に買ってみた
仕事を終えたサラリーマン達が夕暮れの雑踏をかき分けて家路を目指す。もっとも、僕にとっては彼らが我が家を目指しているのか、それともネオンの光がギラギラ照らす歓楽街を目指しているのか推し量るべくもないことだった。
というのも僕には夢中で足を進める目的があったからだ。しばらく歩くと、どうやら町の本屋のお化けのごとき巨大な書店に着いたようだ。
この巨大な空間では、多くの筆者たちが思いを込めた紙の束が幾重にも重ねられ、まるで亡霊のように客達に「気づいてくれ」「買ってくれ」と主張してくる。
しかし、そんな思惑もむなしく、私には一切が届かない。私には「火花」以外に欲求を満たしてくれる本は存在していないとさえと信じていたのだから。
ということで「火花」を実際に購入して読みました。
純文学とはなんだ??
冒頭で一連の流れを純文学風に書いてみましたが、とにかく純文学って「くどい」。おそらく作家から言わせると「くどさ」と「芸術性」は相反するようなのですが、素人の私が純文学に触れるとき「くどい」というのはいつもあります。
改めて、純文学について定義を学んでみます。
純文学(じゅんぶんがく)は、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語。
~wikipedia~
なるほど。風景を描写する際にできるだけ芸術的に文章を構成するのが純文学であるそうです。やたら難しげな単語を使って細かく描写し、文章を美しくしようとしている結果であれば納得です。だから嫌いなんだという方も多いでしょう。
そういえば、前回の記事でもネガティブ派の意見で、「難しい」「くどい」というものがありました。おそらくネガティブ派のユーザーは「火花」でなくても純文学を読めばほぼ必ずこのような感想を持つことでしょう。私も同じです。
ところで大衆小説ってなんだよ。気になる。
大衆小説は、純文学に対して「芸術性」よりも「娯楽性」に重きを置いている小説の総称。「通俗小説」「通俗文学」とも呼ばれた。~wikipedia~
純文学の対義語が大衆小説だということですが、「芸術性」はなんとなく分かる。しかし「娯楽性」とはなんだ?
大衆小説のジャンルとしては、チャンバラ小説、探偵小説、科学小説、ユーモア小説、股旅小説、実録小説、現代小説などなど、読みやすいものが分類されるみたいです。なんとなくジャンルから「娯楽性」が読み取れます。読みやすいものという意味でしょうか。
でもなんとなく、純文学といって格式を高く見せ、大衆小説と対比して馬鹿にしているように感じてしまうんですが、どうなんでしょう。
一般に大衆小説の作家やその作品は、同時代の純文学作家とその作品に比べ、不当に低く評価されがちである。しかし、大衆小説の持つ大衆小説ゆえの文学性が、同時代、あるいは後代の文学者に評価される例も、決して少なくはない。~中略~それは大衆小説の衰亡を意味するのではない。嗜好の多様化によりかつての大衆像は崩壊しており、幅広い大衆に向けて読み捨て的な娯楽性のみを 追及するといった意味での大衆小説という分類は失われているが、かつての大衆小説のうち、時代経過に耐える質の高いものは現在でも広く読まれている。
予想通り、大衆小説の作家と純文学の作家の間で大きな議論がありそうです。しかし、読むときにかなり気合を入れないと読めない「純文学」ですが、その理由も定義から考えるとわかる気がしました。
「火花」の感想
はっきり言って「火花」は面白かったです。
ただ、率直に思ったことは又吉先生はまだ作家としてそこまで完成されていない印象を受けました。私は純文学は苦手ではありますが、それなりに経験はしています。森鴎外、夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、ドストエフスキーなどそれなりに有名な本は読んできたつもりです。それらと比べると無駄な表現が多くあるような気がしています。「くどい」と思うのはどれも同じですが、「火花」は無理やり純文学に近づけている感じがします。特に、作品の冒頭では気合を入れすぎてその傾向が顕著です。
説明するために、「火花」の冒頭を少しご紹介します。
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海海に面した沿道は白昼の激しい日差しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
冒頭から頭に全然入ってきませんでした。まじでこれずっと??と思っていたら、自然で読みやすい文章になったり、唐突に分かりにくい表現になったりします。ただ、「火花」はそこまで読みにくいということもありませんでしたが、偉大な作家たちの文章は「くどい」なりに風景描写に無駄がなく、スッと頭に入る気がしています。
又吉先生にとって初めての本格小説ということで、これからペンを振るって精進する必要があると思いましたが、芥川賞を受賞するだけあって今後にも期待したくなる作品です。是非皆さんも読んで見てください。
おまけ 芥川龍之介と太宰治
そういえば、又吉さんは太宰治のことを尊敬しているそうですが、太宰は芥川龍之介を敬愛していたそうです。どうやら太宰サンは芥川のことが好きすぎて、写真 のポーズをマネしていたこともあるそうです。また、残されたノートには芥川を好きすぎて何回も「芥川龍之介」と書いているものだ見つかっています。意外とかわいいですね。太宰は切望していた芥川賞を結局受賞できていませんが、太宰はどれくらい芥川の作品を愛していたのでしょうか。
それを図るために、クラスター分析で日本の文豪「夏目漱石・森鴎外・芥川龍之介」の三人と「太宰治」がどれくらい文章が似ているのかクラスター分析を使って調べてみます。
ここでは、4人の作品から2万字づつ抜き取って形態素解析し、それをクラスター分析で、作品ごとに分類してみます。すると、
この樹形図は、距離が近いほど似たもの同士であることを示しています。
なるほど、確かに太宰治と芥川龍之介はクラスタごとに分類すると似た文章だということが分かりました。ちなみに私が学生時代に書いた論文も芥川、太宰に若干似ているという結果が出ました。なぜでしょうか。。
本当は「火花」の文章も組み込んで、又吉先生がだれに影響を受けているのか分析してみたかったですが、テキストデータが手に入らないので諦めます!
ありがとうございました。